miirachan’s blog

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「私生活」/愛の分別

どもーみいらです。とつぜんですが、これを読んでるあなたには「大切な人」っているだろうか?本当に縁っていうのは不思議なもので、意図せずとも縁は深まったり遠退いたりしていく。

 

 

わたしは「縁=愛にほぼ近いな」って感覚があって。でも愛の流量みたいなものは、いだいている愛着の度合いだったりとか、自分側の感覚でしかはかれないように思えて。

 

ひとたび縁が始まりだすと、

「自分は『また会いたいな』とか『この話題きいてみたいな』とか思うけど、相手はどうだろう…」

と、少し臆病になってしまう。でも縁はそれを超えてきてこそ縁になるっていうのも、どっかでわかってて。なもんだから、だんだんいつの間にか自分から縁の糸をたぐって相手のそばに行くことができるようになる、っていうのがよくあるパターンだ。

 

 

縁の加減について学ばされた実体験があって、高校生の頃、はじめて付き合った恋人と、お互いの大学進学によって何百キロも離れることになった。若かったわたしは、離れていても日々が恋人とすごせるわずかな時間のためになるなら、ということしか頭になかったが、1ヶ月ほどで、「もう終わりにしよう」とあっけなく別れを突きつけられた。でもそれは誰のせいでもなくて、そばにいられなければお互いにつらくなるだけだってことを、わたしだけが目をそらしていたにすぎない。どんなに自分に都合が悪くても、現実を直視することは、ちゃんとその時にわき上がってる感情を感じるってことだと思う。

 

 

 

だから、わたしは感情を感じることを恐れて無意識に遠ざけているのかもしれない。わたしが流し込もうとしている流量はいつも濁流のようで、壊したくない縁ほど必死にセーブをかけながら、まるで小川であるかのようなふりをする。たくさん傷ついて傷つけて、いつの間にかそういう処世術なしにはいられなくなっていたのかもしれない。

私自身も流れ込んでくる源流にどんなものが含まれているかも確認できなくなっていて、例えば恋愛だと思ったものも気付けばその成分を含有していなかったりする。その逆も然りなのだろう。

 

 

わたしにはまだまだ愛の種類が分別できない。分別できないので、手放すこともできないから、ただただ愛にうずもれて生きているのかもしれない。

 

 

そんな感じ。最後まで読んでくれてありがと!