miirachan’s blog

映画のことや音楽のこと、私生活のことなど

「2046」/愛について考えていきませんか

「2046」

2004年公開、監督ウォン・カーウァイ

出演トニー・レオンチャン・ツィイー木村拓哉フェイ・ウォン、…

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2046に行く目的はただ一つ、失くした記憶を見つけるため

そこに行けば、失われた愛が取り戻せると信じて。だけど、本当にそうなのかは誰も知らない。なぜなら、2046から帰ってきた人はいないから。僕を除いては。

 

へえ〜…2046ってどんな場所なんだろう…と冒頭からしばらくちょび髭の木村拓哉を眺めつつ、作品の世界観に脳内を馴染ませることに専念しました。
この作品はウォン・カーウァイ監督による三部作の最後に位置づけられる作品だったようで、この「2046」のみを最後まで見ても物語の要旨を掴みきるのはむずかしいようです。
でも観ちゃったので、観ちゃったなりに感じたことを書き連ねていきます。

 

 

もやのかかったようなロマンス

物語の中心にいるのはトニー・レオン演じるチャウ・モウワン。舞台はシンガポールから冒頭すぐに香港へ移ります。チャウさんには忘れられない人がいるようで、それについては三部作の前の二作とリンクしているようです。とある女性に対し、一緒に香港へ行こうと口説いたにもかかわらず、振られてしまいました。
香港では暴動が起きたりしていて、そんな中ホテルの部屋にこもって書き物をしながら暮らすチャウさん。お隣の2046号室のバイさんのことがなんだか気になっているようで、飲み友達とか言っていたけどいつの間にかいい感じになっていて2人楽しそうです。このチャン・ツィー演じるバイさんは少しツンとしてとがったようなかっこよさとかわいらしさを併せ持つような人で、とても素敵な女性に描かれていました。チャウさんに食事に誘われたシーンで後ろをついていくのではなく自分が前を歩くと言った姿は、わたしには本当に魅力的に感じられました。


唐突に自分語りしますが、わたしは恋愛の志向として、いわゆる「女性」の方が好きです。(厳密さを求めれば、相手が精神的に女性だから必ずしも好意の対象となるわけではないようなんだけども。)
恋愛(のようなもの)の経験は女性を相手にしかしたことがないので、とにかくチャウさんといい仲になる女性が結局泣いてばかりいるのが悲しかったです。どうして性懲りもなくそう何度も何人も泣かせるのかと…。チャウさんに怒りたくなってしまいました。だってこの「2046」のチャウさんはあまりに身勝手で、相手の心のこじ開け方は知っているのかもしれないけど、一緒にいる未来というのは全然ないようであまりにも刹那的というか。物語が過去ばかり見ているそういう彼を描こうとしているのは理解しつつも、あまりにもたくさんの女が泣くのでこっちまでメソメソしてしまいました。

 

 

それとも虹は、もう消えてしまいましたか?

一方で、フェイ・ウォン演じるジンウェンは日本企業の社員であるタクと付き合っていますが、ホテルの支配人であるジンウェンの父には猛反対されています。
このタクを木村拓哉が演じています。2000年代前半、わたしはSMAPヲタクだったのでこの映画が話題になったことはよく覚えていて、いつかもう少し大人になった時に観る映画だなと感じたのであえて情報を入れなかった記憶があります。当時中学生でしたが、30代になった今、ようやく観ることができました。まあ、実際のところ慎吾推しだったのでするーできたのだと思います。
タクが日本に帰る際、ジンウェンは「俺と一緒に来ないか」とタクに言われます。何も言えないジンウェン。ああ…なんてことだ…と見ているだけのわたしは一旦は悲嘆に暮れたのですが、なんだかんだ手紙のやりとりを続けていた2人。
タクからの手紙の中で、ジンウェンとの愛のあたたかさが綴られていました。「心に虹がかかったようだ」というような表現の後で、はっきりとした言葉をもらえない不安からタクは「あなたの心にかかった虹は、もう消えてしまいましたか?」と続けます。

この言葉は本当に印象的で、思い出すだけでも涙が溢れてきます。というのも、セクシャルマイノリティの象徴である虹が関わる表現に対してわたしは、とても敏感に反応するようになってしまったのです。

 

これは映画とは関係のない話ですが、しがないセクシャルマイノリティであるわたしにとってカミングアウトをしていない間柄の気になる人がいる状況では、その、気になる人が虹について口にするだけで全神経がその言葉遣いや表情、声色に向かい、「虹」についてこの人はどんな風に思っているだろうかとか、自分が今抱いている「虹」と同じような思いをこの人も共有してくれる時が来るだろうかとか、とにかくいろいろな考えが脳内を駆け巡ります。深い意味はなしに、「この間キレイな虹が出ていたよ、あまりうまく撮れなかったけど、ホラ」と写真を見せてくれているのだろうけど、こんな時なんと言えば不自然にならないだろうかと、現実ではうまく話せなかったりもして。
そんな虹のような、見ようとしなければ気付くこともできないような儚いものなのにそれさえも消えてしまったというのかと。掴めなくとも見ることはできていたあの虹は、もう消えてしまったのかと…ああ…あまりにも苦しくて悲しい…

 

 

 

2046は、失っていることを知って加速した

なんと言ったらいいか、一度は失われたように思えたジンウェンとタクとの愛。それはジンウェンとチャウさんが出会い、距離を近づけたことで皮肉にも取り戻されたように思えます。2047号室のチャウさんと書くことを介して築かれた関係性の中で、ジンウェンはチャウさんからの誘いを断りました。そしてタクのいる日本へ行き、あれだけ猛反対をしていた父からの祝福まで受けて結婚という形で実ります。最後にチャウさんからジンウェンに贈られたのは小説「2047」。ジンウェンは、悲しすぎるラストをハッピーエンドにしてと父伝いに頼みます。

「やってみよう」と試みたチャウさんでしたが、わたしたちに見せられたのはハッピーエンドとは程遠いチョウさんの中にある圧倒的孤独の心象風景。ラストではいろんな女を泣かせてきたチャウさんも、過去を清算し、自分の未来へ向かって歩いていくことに気付き、2046へ戻るのを断ち切ろうとしたように感じました。ジンウェンの2047と同じように、チャウさんの2046もバッドエンド回避を願わずにいられません。

 

 

セックスは、愛か

さて、話は変わりますが、どうしても映画におけるセックス=愛があったことの記号的な表現が気になってしまいます。これはごく個人的な見解なのですが、ロマンスにおける男性から求められるセックスに応じることでは双方向性の性質を持つ愛は描き出しづらい(というか、あまり描かれない?)ように思うのです。実際のところ、この映画でもバイさんからチャウさんを求めた時、チャウさんはとてもドライに応じ、それが別れを決定づけました。バイさんはチャウさんの求めを受け入れ、愛を募らせた一方で、チャウさんは自己都合の主張しかしません。五分五分な思いなんてないのかもしれないけれど、この作品に限らず好意で繋がるロマンスの言う愛があまりにも空虚に感じてしまうのです。それって美しいのだろうか、と。自分で自分のために燃えた命の空虚さなら美しいと思えても、ひとに焚き付けられて燃え上がった炎がやり場なく淡く弱くなっていくのはなんだか悔しいです。なのでバイさんがチャウさんの人生を前に進めるためのピースみたいな存在でしかなかったのかと思えて、見終わった後は愛すべきバイさんを応援したい気持ちが昂ってしまいました。
チャン・ツィイーフェイ・ウォンは一時の日本でもよく目にした俳優さんですが、タイプの全く違う彼女たちの姿が本当に美しく、儚く素敵に描かれていました。

 

 

 

退廃的というか淡さというか、そういった色調に惹かれる瞬間がたくさんあり、舞台となっている1960年代を匂わせる世界観というか、価値観というか、そういった表現が素晴らしい作品だと思います。また、ホテル内での画角など、映っていない画面の外まで描いてみせるような印象があったようにも感じます。とにかく少し心が荒んでしまって、少しの自己嫌悪の代理体験や人間の不甲斐なさの知覚なんかを求めている日にはぴったりなのではないでしょうか。これからのメソメソしたい夜はきっと「2046」へ向かいたくなるのだろうなあと思います。