miirachan’s blog

映画のことや音楽のこと、私生活のことなど

「よかれと思ってやったのに 男たちの「失敗学」入門」

先日、長年のもやもやをほどくヒントが見つかりかけたので記しておきます。

 

 

清田隆之さんの『よかれと思ってやったのに 男たちの「失敗学」入門』、まだ最初の方しか読んでいないけれど、ちょっと語らせてください。

 

唐突ですが、いわゆる「女子高のプリンス」現象ってあると思うんですけど、たとえばそうだな…天海祐希さんみたいな感じで。女子にモテる女子っていう。

どういうつもりか分からないけど、周囲の女の子が自分に常々好意的に接してくる日常。そんな時プリンスは果たしてどんな胸中なのか…!プリンスは混沌とした好意の渦のなかで、果たして自分の恋愛指向に不自由さはないだろうか…!!!という。ちょっと想像してみてください。どんな気持ちがわいてきますか?

 

 

上で挙げた本では、「仕事の付き合いの間柄の異性に対し『自分に気があるのでは?』と受け取ってモーションかけてショックを与えてしまう」という事例が挙げられていたのですが、わたしは「まさにコレ!」と男性側の失敗学としての切り口にとても共鳴しました。

 

視点を女子高のプリンスに戻してみましょう。現代の世の中では、異なる性の2人が親密にする場合、恋愛感情があるかどうかは関係性の発展において大きな分岐点になります。

「男女の友情は存在するか」といった永遠のトークネタのあるあるですよね。

だけど女子高のプリンスは、相手も自分も「女子」であることが前提です。もしもあなたがプリンスで、とある女子にときめいてしまったら?または、「自分のことを恋愛的にすきなのでは?」という気持ちが浮かんでしまったら?

 

 

 

わたしはプリンスではないにせよ、ふとした時にこの葛藤に襲われるわけです。

ですが清田さんの著書はその問題の解像度をかなりあげてくれました。

それは、性別ではなくてあくまで関係性の前提がなんなのかという部分をしっかり認識して付き合いを構築するのがベター、という結論です。

 

 

なんだかますますご縁が遠退いていきそうな結論を得たのですが、そもそも今の自分の状態が人との関係性を持続するにはむずかしいと感じてるので、大丈夫です(なにが)。

 

 

最近は、モテる人って大変なんだろうなって想像する、「アッチ側目線」を楽しむことを覚えましたので…!

 

 

 

 

結局なにも解決してない!最後まで読んでくれてありがとうございます!

 

 

 

 

 

「私生活」/愛の分別

どもーみいらです。とつぜんですが、これを読んでるあなたには「大切な人」っているだろうか?本当に縁っていうのは不思議なもので、意図せずとも縁は深まったり遠退いたりしていく。

 

 

わたしは「縁=愛にほぼ近いな」って感覚があって。でも愛の流量みたいなものは、いだいている愛着の度合いだったりとか、自分側の感覚でしかはかれないように思えて。

 

ひとたび縁が始まりだすと、

「自分は『また会いたいな』とか『この話題きいてみたいな』とか思うけど、相手はどうだろう…」

と、少し臆病になってしまう。でも縁はそれを超えてきてこそ縁になるっていうのも、どっかでわかってて。なもんだから、だんだんいつの間にか自分から縁の糸をたぐって相手のそばに行くことができるようになる、っていうのがよくあるパターンだ。

 

 

縁の加減について学ばされた実体験があって、高校生の頃、はじめて付き合った恋人と、お互いの大学進学によって何百キロも離れることになった。若かったわたしは、離れていても日々が恋人とすごせるわずかな時間のためになるなら、ということしか頭になかったが、1ヶ月ほどで、「もう終わりにしよう」とあっけなく別れを突きつけられた。でもそれは誰のせいでもなくて、そばにいられなければお互いにつらくなるだけだってことを、わたしだけが目をそらしていたにすぎない。どんなに自分に都合が悪くても、現実を直視することは、ちゃんとその時にわき上がってる感情を感じるってことだと思う。

 

 

 

だから、わたしは感情を感じることを恐れて無意識に遠ざけているのかもしれない。わたしが流し込もうとしている流量はいつも濁流のようで、壊したくない縁ほど必死にセーブをかけながら、まるで小川であるかのようなふりをする。たくさん傷ついて傷つけて、いつの間にかそういう処世術なしにはいられなくなっていたのかもしれない。

私自身も流れ込んでくる源流にどんなものが含まれているかも確認できなくなっていて、例えば恋愛だと思ったものも気付けばその成分を含有していなかったりする。その逆も然りなのだろう。

 

 

わたしにはまだまだ愛の種類が分別できない。分別できないので、手放すこともできないから、ただただ愛にうずもれて生きているのかもしれない。

 

 

そんな感じ。最後まで読んでくれてありがと!

 

 

 

「私生活」/休職を経て

ども~みいらです~。10月から断続的に、そんで2月からは本格的に休職をして6月から復職をしました。その変遷を振り返りつつ、めそめそした気持ちを落ち着けたいと思います!

 

 

これは休職初日のツイート。哀愁がすごい。仕事の繁忙期なのにドクターストップをかけたいと医師に言われ、やむなくギブアップとなりました。

 

 

とある方にみてもらい、なんと守護霊さまに触る経験をしました。決意はした時がいちばん固い…。いつもありがとう守護霊さま。

 

 

 

地元でおさんぽ会を開催して、楽しんでもらうことができました~。

 

 

おさんぽ会は真夏と真冬をのぞいて、やっていきたいなあと思います。

 

あとはアデルのいんきんたむしに笑ったりお見舞い申し上げたりしていました。

 

 

ちょっと元気がでてきました。ひとにどう思われてるとか勝手に想像して、それってある意味で相手を悪人に仕立ててるみたいな側面もあるなあって、冷静になれば思うのですが。やっぱりその場その時はネガティブに全振りしてしまうわけですよね。ドンマイだよわたし。

 

 

そういうわけで、今日はこのくらいにしといたります。読んでくれてあざます!

 

 

 

 

 

「私生活」/少し休養をとりたい

少し、お休みをとることにしました

 

 半年以上、ずーっと仕事で気ぜわしい日々が続いていて。少しだけ仕事の休みをとることにしました。昨年度から転職して今の職場になり、畑違いの業界に30歳を過ぎて飛び込むことに。はじめてのことも多いし、業界の考え方が身についていないので何事にも判断に時間がかかってしまう。

 

 フィードバックも思うように得られない環境で、自分の判断に自信が持てず、先輩や同僚との会話も少ない状況で極度の不安感と自信喪失に陥り、ついに自分はいない方がいい……(と、さらにその先も)よくない思考に頭が支配されるまでになってしまいました。波はあれど、よくない思考に支配される状態が1カ月くらい続き、いよいよ仕事の処理能力に支障が出始めたため、「病院に行くこと」と「休養をとること」の必要性に気づかされました。ほんの2週間程度の休養ですが、病院へ行き、上司に相談し、自分で決めた休養です。いい状態になりたい、仕事は頑張りたいという気持ち、だけど今すぐにはタスク処理のために頭をフル稼働させられないという現状。自分で決めた選択で、うまくいこうといくまいと自分に結果が返ってくる。そういうものを積み重ねて自分に対する自信を取り戻していけたらいいな。

 

FOCUS:自信のなさの根本

 私の自信のなさは今に始まったことではなく、こどもの頃からずっと抱えていた問題で。東京で生活していた20代半ばまでは、恐らくそれを挽回するためにもがくことができていたんじゃないかと思います。相手を見極め、自分のセクシャリティのカミングアウトにも少しずつ取り組み、自分を周囲に受け入れてもらう体験を通じて自己受容を図っていました。ですが秋田に帰郷した今、なかなかカミングアウトはうまくできていません。都市部よりも日常から多様性を実感しにくいであろう地方の環境。親、親戚、同級生など、否応なしに自分の素性に繋がってしまう狭さ。出身集落や学校などの属性をふまえた付き合いが多いため、カミングアウトなどした日には、自分は本当は受け入れられないのではないかという不安が、職場などの固定的なメンバーのコミュニティではどうしてもつきまとってきてしまいます。いつも後ろめたさがどこかにあって、自分のことを許容も肯定もできずにいました(というか、今も)。これはもう、思考回路にクセがついてしまっているんだと思います。

 

 

苦しい中での、ゆるっとゼミ開催

 そんな中ではありましたが、自分で自分を肯定できる場に行きたい一心で小規模ながら、久々のゆるっとゼミを企画し参加者を募りました。大して活動できていないながらも、自分が主催するという活動においてリーダーシップのとり方にはこれまでさまざまな思案を巡らせてきていて。その中のひとつとして、「自分がいいと思うことなら、もっと提示していっていいのかも」ということです。会の進め方や構造などはむしろ、最初から決めて提示していく必要があるのだなと。

 

 

 自分が決めて実行したことの結果が返ってくる、それをもとにまた選択と実行を重ねていく。そうやって繰り返していくのは単純なことではあるけど、否定的な結果が突き付けられること、例えば他者からの否定や拒絶を受ける恐れから逃げていたのかもなと気づかされました。

 それに、与えられたことにいくら必死になっても、結果の基準はどうやっても他者評価でしかないのですよね。日々にあふれる選択の場面に、どれだけ自分の意思を宿せるかという目線を持ち込めると、私の自信も少し回復させられるんじゃないかなっていう希望を感じられます。

 

 

自然な自分でいたい

 

 さて、この束の間の休養をとってその後、どんな自分でいたいか。それは、「自然な自分でいたい」です。取り繕わず、自然な反応ができること。自然な関係性を築けること。自分が感じる自然な感情を、他者のために加工する前にいったん自分で受けとめられること。そのためには、自分でいいと思うことを選んで、結果を受けとめることが大事だなって思います。そのために、自分を整える休養にしたい……!

 

 

 

「2046」/愛について考えていきませんか

「2046」

2004年公開、監督ウォン・カーウァイ

出演トニー・レオンチャン・ツィイー木村拓哉フェイ・ウォン、…

eiga.com

 

2046に行く目的はただ一つ、失くした記憶を見つけるため

そこに行けば、失われた愛が取り戻せると信じて。だけど、本当にそうなのかは誰も知らない。なぜなら、2046から帰ってきた人はいないから。僕を除いては。

 

へえ〜…2046ってどんな場所なんだろう…と冒頭からしばらくちょび髭の木村拓哉を眺めつつ、作品の世界観に脳内を馴染ませることに専念しました。
この作品はウォン・カーウァイ監督による三部作の最後に位置づけられる作品だったようで、この「2046」のみを最後まで見ても物語の要旨を掴みきるのはむずかしいようです。
でも観ちゃったので、観ちゃったなりに感じたことを書き連ねていきます。

 

 

もやのかかったようなロマンス

物語の中心にいるのはトニー・レオン演じるチャウ・モウワン。舞台はシンガポールから冒頭すぐに香港へ移ります。チャウさんには忘れられない人がいるようで、それについては三部作の前の二作とリンクしているようです。とある女性に対し、一緒に香港へ行こうと口説いたにもかかわらず、振られてしまいました。
香港では暴動が起きたりしていて、そんな中ホテルの部屋にこもって書き物をしながら暮らすチャウさん。お隣の2046号室のバイさんのことがなんだか気になっているようで、飲み友達とか言っていたけどいつの間にかいい感じになっていて2人楽しそうです。このチャン・ツィー演じるバイさんは少しツンとしてとがったようなかっこよさとかわいらしさを併せ持つような人で、とても素敵な女性に描かれていました。チャウさんに食事に誘われたシーンで後ろをついていくのではなく自分が前を歩くと言った姿は、わたしには本当に魅力的に感じられました。


唐突に自分語りしますが、わたしは恋愛の志向として、いわゆる「女性」の方が好きです。(厳密さを求めれば、相手が精神的に女性だから必ずしも好意の対象となるわけではないようなんだけども。)
恋愛(のようなもの)の経験は女性を相手にしかしたことがないので、とにかくチャウさんといい仲になる女性が結局泣いてばかりいるのが悲しかったです。どうして性懲りもなくそう何度も何人も泣かせるのかと…。チャウさんに怒りたくなってしまいました。だってこの「2046」のチャウさんはあまりに身勝手で、相手の心のこじ開け方は知っているのかもしれないけど、一緒にいる未来というのは全然ないようであまりにも刹那的というか。物語が過去ばかり見ているそういう彼を描こうとしているのは理解しつつも、あまりにもたくさんの女が泣くのでこっちまでメソメソしてしまいました。

 

 

それとも虹は、もう消えてしまいましたか?

一方で、フェイ・ウォン演じるジンウェンは日本企業の社員であるタクと付き合っていますが、ホテルの支配人であるジンウェンの父には猛反対されています。
このタクを木村拓哉が演じています。2000年代前半、わたしはSMAPヲタクだったのでこの映画が話題になったことはよく覚えていて、いつかもう少し大人になった時に観る映画だなと感じたのであえて情報を入れなかった記憶があります。当時中学生でしたが、30代になった今、ようやく観ることができました。まあ、実際のところ慎吾推しだったのでするーできたのだと思います。
タクが日本に帰る際、ジンウェンは「俺と一緒に来ないか」とタクに言われます。何も言えないジンウェン。ああ…なんてことだ…と見ているだけのわたしは一旦は悲嘆に暮れたのですが、なんだかんだ手紙のやりとりを続けていた2人。
タクからの手紙の中で、ジンウェンとの愛のあたたかさが綴られていました。「心に虹がかかったようだ」というような表現の後で、はっきりとした言葉をもらえない不安からタクは「あなたの心にかかった虹は、もう消えてしまいましたか?」と続けます。

この言葉は本当に印象的で、思い出すだけでも涙が溢れてきます。というのも、セクシャルマイノリティの象徴である虹が関わる表現に対してわたしは、とても敏感に反応するようになってしまったのです。

 

これは映画とは関係のない話ですが、しがないセクシャルマイノリティであるわたしにとってカミングアウトをしていない間柄の気になる人がいる状況では、その、気になる人が虹について口にするだけで全神経がその言葉遣いや表情、声色に向かい、「虹」についてこの人はどんな風に思っているだろうかとか、自分が今抱いている「虹」と同じような思いをこの人も共有してくれる時が来るだろうかとか、とにかくいろいろな考えが脳内を駆け巡ります。深い意味はなしに、「この間キレイな虹が出ていたよ、あまりうまく撮れなかったけど、ホラ」と写真を見せてくれているのだろうけど、こんな時なんと言えば不自然にならないだろうかと、現実ではうまく話せなかったりもして。
そんな虹のような、見ようとしなければ気付くこともできないような儚いものなのにそれさえも消えてしまったというのかと。掴めなくとも見ることはできていたあの虹は、もう消えてしまったのかと…ああ…あまりにも苦しくて悲しい…

 

 

 

2046は、失っていることを知って加速した

なんと言ったらいいか、一度は失われたように思えたジンウェンとタクとの愛。それはジンウェンとチャウさんが出会い、距離を近づけたことで皮肉にも取り戻されたように思えます。2047号室のチャウさんと書くことを介して築かれた関係性の中で、ジンウェンはチャウさんからの誘いを断りました。そしてタクのいる日本へ行き、あれだけ猛反対をしていた父からの祝福まで受けて結婚という形で実ります。最後にチャウさんからジンウェンに贈られたのは小説「2047」。ジンウェンは、悲しすぎるラストをハッピーエンドにしてと父伝いに頼みます。

「やってみよう」と試みたチャウさんでしたが、わたしたちに見せられたのはハッピーエンドとは程遠いチョウさんの中にある圧倒的孤独の心象風景。ラストではいろんな女を泣かせてきたチャウさんも、過去を清算し、自分の未来へ向かって歩いていくことに気付き、2046へ戻るのを断ち切ろうとしたように感じました。ジンウェンの2047と同じように、チャウさんの2046もバッドエンド回避を願わずにいられません。

 

 

セックスは、愛か

さて、話は変わりますが、どうしても映画におけるセックス=愛があったことの記号的な表現が気になってしまいます。これはごく個人的な見解なのですが、ロマンスにおける男性から求められるセックスに応じることでは双方向性の性質を持つ愛は描き出しづらい(というか、あまり描かれない?)ように思うのです。実際のところ、この映画でもバイさんからチャウさんを求めた時、チャウさんはとてもドライに応じ、それが別れを決定づけました。バイさんはチャウさんの求めを受け入れ、愛を募らせた一方で、チャウさんは自己都合の主張しかしません。五分五分な思いなんてないのかもしれないけれど、この作品に限らず好意で繋がるロマンスの言う愛があまりにも空虚に感じてしまうのです。それって美しいのだろうか、と。自分で自分のために燃えた命の空虚さなら美しいと思えても、ひとに焚き付けられて燃え上がった炎がやり場なく淡く弱くなっていくのはなんだか悔しいです。なのでバイさんがチャウさんの人生を前に進めるためのピースみたいな存在でしかなかったのかと思えて、見終わった後は愛すべきバイさんを応援したい気持ちが昂ってしまいました。
チャン・ツィイーフェイ・ウォンは一時の日本でもよく目にした俳優さんですが、タイプの全く違う彼女たちの姿が本当に美しく、儚く素敵に描かれていました。

 

 

 

退廃的というか淡さというか、そういった色調に惹かれる瞬間がたくさんあり、舞台となっている1960年代を匂わせる世界観というか、価値観というか、そういった表現が素晴らしい作品だと思います。また、ホテル内での画角など、映っていない画面の外まで描いてみせるような印象があったようにも感じます。とにかく少し心が荒んでしまって、少しの自己嫌悪の代理体験や人間の不甲斐なさの知覚なんかを求めている日にはぴったりなのではないでしょうか。これからのメソメソしたい夜はきっと「2046」へ向かいたくなるのだろうなあと思います。

 

 

 

 

 

「浜の朝日の嘘つきどもと」

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パンフレット

※ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

「浜の朝日の嘘つきどもと」

秋田県大館市にある御成座で見てきました。上映後は監督のタナダユキさんと出演の柳家喬太郎師匠の舞台挨拶も。写真にある朝日座は福島県に実在する歴史ある名画座で、コミカルでポップな雰囲気を漂わせつつも、閉館の危機迫るこの朝日座を交点として交わる人びとの人間模様が描かれています。

 

 

茉莉子先生の愛

閉館の危機にある朝日座を救う着火剤は大久保さん演じる茉莉子先生なわけです。優しくされるとすぐに惚れてしまったり、寄ってこられると情けをかけてしまう茉莉子先生。人に惜しげもなく情を注げる先生がバオくんの表現する自分へ向かう愛情に関しては、相手を大事に思うあまり素直に受け取れないまま最期を迎えたというのが個人的には泣きどころのピークでした。この役を大久保さんが演じたことで、先生の押し付けがましくなく、だけど義理深い情ある姿が切なくも軽やかに表現されていてとても印象的です。

 

この物語の中心人物である朝日座支配人・森田を演じるのは落語家の柳家喬太郎師匠です。監督や演者も、「誰も悲劇のヒロインをやってない」とか「かわいそうに見られたくない」ということを言っていて、これは芸人さんが演じることで大いに表現された面もありそうだなと感じます。

 

また、この映画は車や衣装などの色使いのポップさもあり、夏の撮影ということもあってかカラッとしていて楽な気持ちで見ていることができます。だからこそ、莉子が父の会社を訪ねるシーンのドシャ降りは彼女の心の中が投影されていて、血のつながりへの憂いを一層滲ませていました。

 

 

 

血がつながっていなくても、心がつながっていて

茉莉子先生に救われた莉子は、先生亡き後もきっとバオくんや支配人の森田、不動産屋の岡本さんなど周囲の人と心のつながりを深め続けていく姿が目に浮かびました。当初初めて朝日座に訪れた時からそこに住み、チラシ配りでは近所の人たちにも「ああ、映画館の!」と親しげに関わる姿が描かれていたのが印象的でしたし、朝日座の周辺でその土地の文化を大事にしながら暮らす人々の姿がありました。

一方で朝日座を解体して建てられようとしているのもまた、地域のためを思ってのスーパー銭湯であり、地域の人々も「出て行った子や孫などの若い世代が帰ってくる」とか「この大不況に雇用が生み出せる」といった言葉に一時は絆(ほだ)されてしまうわけです。番人にとっての「正しさ」なんてものはないけれど、つながりの優先順位みたいなもので言うとどうしても“血”って上位な気もしてしまいます。すでに取り付けてしまった契約である解体を受け入れざるを得ないムードが出た終盤、なんとどんでん返しで、全く映っていないところで(笑)奔走してくれていた不動産屋の岡本さんがいたわけです。ホッとしました。

 

 

 

地方暮らしのよいところ

地方で商売をしながらその土地の文化を大事にする人々は、みんなそこに居場所があってーーという話を喬太郎師匠がパンフレットで言っていますが、それって落語みたいなんだと。確かに落語の中にはいろんな人物が出てきて、笑いや涙を誘う展開が関係性の中で繰り広げられます。
今自分自身が、仕事柄かなりローカルなコミュニティに関わる機会も多くて。地方都市においては今後持続していくための課題もたくさんあるのだけれど、地方の魅力は何より、その山積された課題に対して一人ひとりが役割を見いだして暮らしていけることなのではないかと改めて思い至りました。生きることは大なり小なり選択の積み重ねです。その選択を後押ししてくれる理由が地方にはあるように思えるのです。

 

 

悲惨さ、悲壮さは一切まとっていないこの映画だけれど、表には出さずとも血縁への拭い去れないもやもやなど、暗い部分をそれぞれに抱えていたりもして。映画や映画館の存在は今も昔もそんな人たちのシェルターになってくれていることを実感させてくれる作品でした。

 

映画に救われた人、映画館に救われた人というのはきっとたくさんいて、そういう人たちが映画や映画館を救おうとする姿が描かれてる作品だと思いました。そのことを通して救おうとしているのもきっと人で、交点としての映画の存在というのをじんわりと感じさせてくれます。それに現代の映写技法で上映されている映画に救われる愛すべきネクラたち(わたしも含む)だってきっと、かつて映画にあった半分の暗闇に安心感を見ているような気もします。

 

今回御成座でこの作品に出会えたことで、わたし自身も血をよりどころにしすぎない交点を育んでいくためにできることをしていきたいと思うことができたのでした。

 

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上映後、サインをいただきました



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上映後の御成座



雪の降りしきる中、頑張って観に行って良かったと思わせてくれる作品でした。前回御成座で別の作品を観た際の予告からして気になっていたので、本当に良かったです。というか、御成座で観る作品全部いいです。御成座フォーエバー。

 

 

■御成座

onariza.oodate.or.jp

 

■浜の朝日の嘘つきどもと<予告編>

youtu.be

 

みいらちゃんのブログ#1ページ目

こんにちは、みいらちゃんです。

映画のことや音楽のこと、私生活のことなど日々の生活で感じたことをつらつらつらっと書き連ねていきます。

こんな感じ方のやつもいるんだなあ、くらいのなまあたたかい温度感で見守ってください。

 

■映画を観るとき

観たい作品を決めるときは、出演者、題材となっているテーマ、Twitter等でのレビューなどを材料に判断しています。
映画好きな人のオススメも観るようにしています。
17歳のカルテやシャイニング、トレインスポッティングなど(ジャンルめちゃくちゃ)過去の名作・迷作をマイペースにチェックしたりもしています。

 

■音楽を聴くとき

THE  YELLOW  MONKEY、ユニコーンJUDY AND MARYなど90s邦楽バンド、
アジカンエルレGO!GO!7188などの00s邦バンドばかりついつい聴いてしまいます。
最近のバンドとか、バンドじゃない人とか、なんならヒップホップ的な人とかも聴くようになりました。
そう、すべてSpotifyのおかげです。ありがとうSpotify

open.spotify.com

 

音楽ってなにがしかの表現したい感情があって生まれてきたものばかりだと思うんですよね。
だから代弁者になってくれる。忘れていたことを思い出させてくれたりもする。
音は振動。心も揺れたり震えたりする。人間ってブラブラゆらゆらしているってことですね。よくわからないけど!

 

■日常、思考するとき

私の愛はどうあるべきか。いつも考えてしまいます。
セックスとジェンダーの間でいつも翻弄されています。
映画を観るときや音楽を聴くとき、その作品を作った人の性に対する価値観みたいなものが透けて見えるのでとても気になってしまうんですよね。
むしろそれを見ようとしている節まである。

結局のところ、作品を通して客体化された人間の価値観の有り様を見たがっているのかもしれません。
とにかく四六時中、人の心の動きについて思考しています。

 

そもそもみいらちゃんという人は、大体映画や音楽っていう刺激にさらされた余韻に浸りながら暮らしています。
もしその他のまとっている余韻を挙げるとしたら、すきな人と過ごした時間の反芻くらい。

 

 

 

 

 

ところで!
これをお読みの皆さんは、身近に性的少数者っていたりしますか❓
いてもいなくてもオールOKだけれど、私がそうですので明記しておきます。

 

性的少数者を認識するときのポイントとして、
①その人が自分の性についてどう思っているかっていうのと②恋愛についてどういうタイプかっていうのがあります。
そんなのは人の数だけあるわけなんだけど、それをタイプ分けすると少数になるから性的少数者っていうカテゴライズがあるわけですよね。

それで、私は①については男とか女とかについて、精神的にはどちらもしっくりきていない感じです。ちなみに身体的には女の造形です。

②についてはほぼ女性ばかりすきになっています。
これについて、自分がどんな基準で相手を見ているか考えてみると、男性をあまりすきにならないできた要因として
「女性と接するとき、男女の線引きをして接してくる男性が必然的に多いから」というのがある気がしています。

自分自身が人格と性を結びつけるのがあまりしっくりきていないので、異性である男性に男性然とされるとありたい自分としてのふるまいがしづらいです。

なので、あまり「自分が男性だから」という気負いなく接してくれる人はとてもすきです。好意となるかは別ですけどね。

 

一方で、自分に対して同性だからこそ気負わずに接してくれている女性に対して好意を抱いた場合、両者の関係性において相手の想定しないものを抱えたまま接している自分というのを認識せざるを得なくて。それでとてつもない自己嫌悪だったり、裏切りのような罪悪感めいたものを感じてしまうこともあります。
こう言うと、「そんなの男女の関係でも変わらないよ」とあなたは思うかもしれません。
だけど私自身も、極力男性から女性としての恋愛対象にならないようにふるまうことを意識していて。
恋愛対象として前提としていないのに、好意を抱かれてもどうしようもできないよ、という線引きが私の中にもあるのです。

 

だから、自分の行為という感情自体、なかなか受け入れられてなかったりします。
精神的にはいわゆるノンバイナリーというやつで、風体も男か女かよくわからないっていうのに、相手に対する好意さえも自覚するのを濁したりしていて、ほんと、なんなんだろうなあという空虚さに時々とりつかれます。

 

 

 

 

 

生きてると、どうしようもできないことってありますよね。

そういうやるせなさや無力感、人間としてあって当たり前のねじれみたいなものが含まれている作品に出会えるとホッとできて、
映画や音楽をすきでいられるのってそういう出会いの癒しがあるからなのかなあって思います。

 

 

そんな感じです。

最後まで読んでくれて、ありがとうございます。またね。